僕もあなたも今日も眠るという刑に服役する

ドストエフスキーでしたか

「穴を掘らされて、次はその穴を埋めて、そして、また掘らされ…」
これは単純労働として刑罰としてのお話ですね。

これが未来永劫に続く。
気が狂いそうですよね、と。

 

サラリーマン社会での話で、窓際族なんて言葉は
今でもあるのでしょうか。

退職に追い込むのに閑職にし、
なんの仕事も与えられずに、、、
やがて退職するみたいなのも
この穴を埋め、と同じでしょうか。

 

で、今日の本題なのですが…

この人生
長生きはいいこと、という暗黙の了解がありますが、
もしも、この人生が刑として送り込まれた人生だとしたら?

寝て、起きて、寝て、起きての繰り返しを
何十年も暮らすのって、早死は刑が軽かったのでしょうか?
長生きは刑が重かったのでしょうか?

 

日常のおきているできごとはすべて付けたりで
本来の「寝て起きて」という刑に服しているのでしょうか。

寝たきり老人とか病気で寝たきりになってしまった
などというのは、死んでこの刑を終えることのできない
しかも、人生の「付けたり」すら体験できない
極刑なのでしょうか?

 

病気にならなくても、老人でなくても
睡眠が不足して「付けたり」の日常で肉体を酷使したり、疲れ過ぎたり
するといつか必ず睡眠での回復を求めるようにできているのは

この人生で掘り、埋めなければいけないある所定の回数の
「睡眠時間」や「寝て起きて」の反復回数をこなさなければ
いけない「刑の強制行使」なのでしょうか。

そんなふうに考えると
この現実世界に生まれてこさせられたすべての人間、動植物は
どこかの世界の罪人だったのでしょうか。

 

そんなことを考えていたら
「付けたり」の人生がどうであれ
まぁ、なんでもいいのかなぁ、なんて思いました。

 

「付けたり」だとしたら
ようは、ツマであり、小付やおかずや
飾り付けに過ぎないならば

メインディッシュの「眠る刑」は自分では
どうしようもないものだと考えるのが
妥当だと考える一方、つまり、ここに送り込んだ誰か、からすれば

この現実世界で「眠る刑」さえ服役してくれれば
「付けたり」はじつはあまり口出さないで
好きにやってくれって思っているかもしれない。

おつまみが菜っ葉だろうと、肉の煮付けだろうと、
ビスケットだろうと、好きにしてくれと。

 

そんなことに
「現実世界のみつひろ」が気がついたらはじめて
「なんだ、そんな程度なんだ」って合点がいったら納得したら、
この世界に「送り込んだ者」からすれば
今の「小付」を好きに変えてもいいと思っているんじゃないかな。

 

ただ、僕らは、このメインディッシュたる(思っている)人生は
そう簡単には変わらない、変えられないって思っている。

でも、じつは簡単なのかも。
だって、今日もこのあと、刑は果たすのだから。

にしだ拝

 

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